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詭弁に対する考察【So-net版】 [雑感]

先にあげていたレポートを基に、小論文ぽくしてみた。

虚偽推論とは論証において間違った論法で推論を行うことである。 ところが、論証において相手をごまかすために意識的に間違ったことをやるという場合もある。 こういう場合を詭弁という。
古代ギリシアから始まる論理学において、詭弁というものが行われ、今日に至っても残っている。 なぜそのような詭弁が行われてきたのか。

ここで虚偽推論のパターンについて触れてみる。 言い換えると、虚偽推論の手法である。 虚偽推論のパターンは全部で12通りある。 うち詭弁に用いられる手法は、「人に訴える論証の虚偽」、「感情に訴える論証」、「無知に訴える論証」、「論点相違の虚偽」の計4種類が主に使われる。

「人に訴える論証の虚偽」とはアインシュタインの理論をアインシュタインがユダヤ人であることを理由に排斥するといった現象をさす。 これはアインシュタインが理論を提唱した当時のドイツはナチスドイツ政権下においてユダヤ人が迫害されていたときに唱えられた論証であるが、アインシュタインがユダヤ人であることと、論理の真偽は無関係である。

「感情に訴える論証」とは、その名のとおり感情に訴えるような論証をして人の目を欺く論証である。 たとえば弁護士が「被告には優しい妻とかわいい子供がいる。 だから誘拐なんてしない」といったとする。 もちろんやさしい妻がいても誘拐することはありうるし、かわいい子供がいてもまた同様。 論理的には無意味であるが、納得してしまいそうになる。
「無知に訴える論証」とは、簡単にいえば「反論がないから正しいのだ」とする論証。 「UFOが存在しないと証明できていない、だからUFOは存在するのだ」というのが典型。 これは正しく論証するならば「UFOは存在するかもしれないし、しないかもしれない」である。
「論理相違の虚偽」とは、的外れであり、論点をいつの間にか摩り替える論証。 「あの人のいっていることは間違っている。 なぜなら酒癖が悪いから」 もちろん「酒癖」と「言っていることの真偽」は無関係である。
これらの手は詭弁をする際に使われる。

ここで本論に戻す。 なぜ人は詭弁を使うのであろうか。
ここで少し人間の精神について話をしておく。 精神を別の言葉に言い換えると心[mind]。 思考(ものを考える)というのは、精神(心)の活動である。 色々な問題について考え、悩む。  その他に思考はさまざまな要素を含んでいる。
記憶していたことを思い出す(知)、何かを思い浮かべる(想像・空想)(意)、思考というものはこういうことも含んでいる。
つまり、思考というものは多種多様な活動を含んでいる。
しかし、感情(情)の働きもある。 思考は精神の活動であるため、感情とも密接に関わっている。

これまで述べてきた事項を基に、詭弁についての私の出した結論を総括する。詭弁が古代ギリシアの時代から今日に至るまで行われているのは、思考というものが憎しみという感情と関わりをもっているからであると推測される。 人が憎しみをいう感情を抱くとき、憎しみを持った相手の理論をなんとかして否定し、自分の正当性を強調したいという願望が芽生えてくる。 そういった感情が人々を詭弁という道に走らせるのではないかと推察する。 決して詭弁が正しいわけではないが、人間が感情を持っている以上、詭弁が消えることもない。 詭弁を減らすには他者との意思疎通といった、自分以外の人の中立的な立場の存在が詭弁の発見に貢献するのではないだろうか。
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